西洋とイスラムの対立ではなく……(1)

哲学クロニクル204号

(2001/09/29)




今回は9月16日のガーディアンに掲載されたサイードのエッセーの前半をご紹介します。

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西洋とイスラムの対立ではなく……(1)
(エドワード・サイード)

ニューヨークと、ある程度まではワシントンも襲ったこの壮大な恐怖は、新しい世界のはじまりを告知するものだった−−目に見えず、だれともわからない者が襲撃し、政治的なメッセージも告げずにテロルを行使し、無意味な破壊を行う新しい世界である。

傷を負ったこの都市に住む人々には、狼狽、恐怖、持続的な憤慨感、そしてショックが長い間続くことだろう。これほどの大虐殺が、これほど多くの人々に残酷に襲いかかったのだから、心からの悲哀と苦悩も長く続くに違いない。

ニューヨークのルディ・ジュリアーニ市長は、いつもはひと好きのしない、不快なほどに戦闘的な人物で、時代に逆行しているような印象を与えていたが、ニューヨークの市民には幸運なことに、事件の直後から第二次世界大戦におけるイギリスのチャーチルのような役割を果たすようになった。冷静で、感情的にならず、異例なほどの同情心を示しながら、市長はニューヨークの英雄的な警察、消防署、緊急サービスを率いて、賞賛すべき効果をあげた(残念なことに、多くのスタッフの命を失うことにもなったのだが)。

パニックに陥らないように、そしてニューヨークの大規模なアラブとムスリムのコミュニティに、排外主義的な攻撃をかけることのないようにと、警告の声をあげたのはジュリアーニ市長が最初だった。苦悩する良識的な心を表明した最初の人物であり、破壊的な攻撃の後にも、日常の暮らしを再開するようにすべての人々に訴えたのも、市長が最初だった。

それで片付けばよかったのだが、全国テレビの報道番組は、翼をもったこの忌まわしい恐怖の怪物を、絶え間なく、しつこいほどに茶の間にもちこんでいる−−しかもいつも啓発的というわけではないのだ。ほとんどのコメンテーターは、大部分のアメリカ人が感じているはずに違いないこと、すなわち恐ろしいほどの喪失感、怒り、憤懣、弱みを傷つけられたという感情、復讐したいという欲望、抑えようのない懲罰の願いを強調するだけでなく、実際には増幅しているのである。

どの政治家も、御墨付きをもらった権威筋や専門家たちは、たんに悲嘆と愛国心をきまりった言葉で表現するだけにとどまらず、アメリカ人はテロリスムを撲滅するまで、いかに屈しないか、思いとどまることがないか、やめないかを、いそいそと繰り返し続けているのである。だれもが、これはテロリスムへの戦争だと口にする。しかしどこで行われ、どこに前線があり、どのような具体的な目的を目指した戦争だというのだろうか。だれも答えない。「われわれ」アメリカ人は、中東とイスラムと戦うこと、テロリスムは破壊しなければならないことだけが、ぼんやりと示唆されるだけなのである。

それよりも気が滅入るのは、世界でアメリカがどんな役割を果たしているのかを理解するために、ほとんど時間が費やされていないということだ。平均的なアメリカ人にとっては、西海岸と東海岸にはさまれたこの大陸が世界であり、この大陸の外部は極端なほどに遠いところとして、意識の外においやられている。そしてこの外部の世界の複雑な現実に、アメリカがどのように直接的にかかわっているのかを理解するための時間など、ほどんど顧みられていないのである。

アメリカは、イスラムのすべての領域で、ほとんどつねに戦争状態にあるか、なんらかの紛争にまきこれている超大国であるはずなのに、まるで「眠れる大国」であるかのようである。オサマ・ビンラディンの名前と顔はアメリカ人にはあまりに馴染みになったために、ある種の麻酔的な効果を発揮している。そしてビンラディンとその影の支援者たちが、はあらゆる忌まわしいものを代表するシンボルになり、アメリカ人の集団的な記憶にとって憎むべきものとなるまでに、どのような歴史があったかなどは、跡形もなく忘却されているのである。

こうして、集団的な情熱が、戦争への衝動へと引き寄せられるのは、避けられないことだった。まるでモービーディックを追うエイハブ船長を思い出させるすさまじさだ。帝国の権力が自国の領土ではじめて襲撃を受けて傷を負い、はっきりとした境界もなく、目にみえる相手もいない状態で、紛争の地理的な状況が急変したというのに、自国の利益をひたすら負い続けているのである。将来にどのような影響があるかについては、善と悪とのマニ教的なシンボルと、黙示録的なシナリオが無造作に口にされるようになり、レトリックを過剰に利用することを抑制しようとするたしなみなどは、かなぐり捨てられてしまった。

いま必要なのは、この状況を理性的に理解することであり、太鼓をたたいて人々の戦意を高揚させることなどではない。ところがジョージ・ブッシュとそのチームが望んでいるのは、理性的な理解ではなく、太鼓をたたくことなのは明らかだ。しかしイスラムとアラブ世界のほとんどの人々にとっては、米国政府とは傲慢な権力の代名詞である。そしてイスラエルだけでなく、アラブの多数の抑圧的な体制をひとりよがりに気前よく支援することで有名である。ほんとうに悲嘆にくれている人々や非宗教的な運動との対話の可能性があるのに、そのことに注意も払わない国である。