ドゥブレのインテリ批判(椋鳥通信-1)

(中山 元)


■ドゥブレのなぐりこみ(笑)

フランスでも日本でも、知識人批判が周期的に発生する傾向が
ありますが、フランスではドゥブレがインテリたちに
なぐりこみ(笑)をかけたようですね。
おまけにエクスプレス誌があおっているようです。
エクスプレス誌の12月9日号にドゥブレの
インタビューがあります。
http://www.lexpress.presse.fr/Express/Info/Societe/Dossier/intello/dossier.asp?id=244408

ドゥブレがGallimardから出した新著IF(Intellectuel Francais)は、
自らの知識人としての経験を踏まえて、自己分析と自己批判を
含めながら、フランスの知識人の「死亡」を宣告します。

ドゥブレはフランスの知識人という生き物は
1898年のゾラの「われ告発す」で生まれ、いまや102歳になり
もはや死の床にいると宣告します。

フランスの知識人は、もはや現実の世界に直面し、これを
語る言葉を失っている。もはや死んでいるのに、自分がゾンビに
なっていることすら自覚できなくなっていると
はなはだ手厳しい告発。

すでにドゥルーズがヌーボー・フィロゾーフに
「あいつらゼロだ」と厳しい宣告をしていました。
#フーコーはグリュックスマンは
#かっていたようですが(『思考集成』VI-377ff)
ドゥブレはドゥルーズのように、現代の哲学者たち、知識人たちが
テクストをきちんと読まないことを批判するのではないようです。

ドゥブレは、ジャーナリズムがもたらした自己の「ドラマ化」と
ナルシシズムによって、知識人が現実との結びつきを
次第に失っていったと批判しているようです。
ドゥブレはいいます。もう新聞を読むな(笑)と、
そして現実の問題が発生している郊外(banlieu)に身を置けと。
「ぼくが二十歳で、戦闘的な魂をまだもっていたら、
郊外にいくだろう」。

フーコーらとともにマドリッドで行った小さなデモンストレーションが
ジャーナリズムによって「英雄チームのかみかぜ」になってしまったことを
苦く思い出す記述なども、印象的です。
ドゥブレの宣戦布告に、フランスの知識人たちはさて、どう反応するの
でしょうか。

この他に、
http://www.lexpress.presse.fr/Express/Info/Societe/Dossier/intello/dossier.asp?id=244948
でドゥブレの著書の
冒頭部分が読めます。

Eric Conanによるフランスの
インテリの102年の生涯の歴史も、
http://www.lexpress.presse.fr/Express/Info/Societe/Dossier/intello/dossier.asp?id=244260
なかなか読ませます。


■インテリの「終焉」?

さて、このドゥブレの「いいがかり」に対して、攻撃されたフランスのインテリたちは
どう反応したでしょうか。さすがにルモンドは素早く対応しました。
Grandeur ou decadence des intellectuels francais?
http://www.lemonde.fr/article/0,2320,2857--127930,00.html
le jeudi 14 decembre 2000

「フランスのインテリの偉大さあるいは凋落」--この記事でロジェ=ポル・ドロワは、
こうしたインテリの「終焉」の宣言は周期的に繰り返されると指摘しながら、そ
の実例として、ジュリアン・ベンダのLa trahison des clercs(1927)とリオター
ルのTombeau pour l'intellectuel(1984)をあげています。そしてこうした終焉の
宣言が実現したことはなかったし、インテリたちはいつもどこかに活動の場をみ
いだして、生き延びづけたと。そしてフランスのインテリは本当に終焉を迎えて
いるのかと、数人のインテリたちに問い掛けました。以下の意見は、翻訳ではな
く、翻案ですのでご注意(笑)。

まず最初は哲学者で、パリ八大学で教えているジャック・ランシエール。彼は現
代のフランス人の公共的な生において、インテリに対する憎悪はなく、さまざま
な問題について考察する哲学者への深い信頼がみられると指摘します。逆にメディ
アなどの世界では、専門的な能力のないことがはっきりしている人物に「ご託宣」
を求めようとする好奇心が強いことに驚くと。インテリの終焉というのは、この
二種類の人物についての混乱から生まれているのではないかというのが、ランシ
エールの診断のようです。

次には生物学者のアンリ・アトランも同じ意見のようです。「インテリを非難す
ることは、別のインテリの役に立つだけだ。哲学者たちが哲学の死を宣言したの
と同じように、この世界ではこれはいつも繰り返される宣言なのだ。こんなこと
を真面目に受け取ってはいかんよ。たしかにパリ特有のインテリの生き方という
ものはあるさ。マイナス面もあるけど、創造性の高さというプラスの面も忘れて
はいかんね。たしかに間違いをおかすことはあるけど、どんな精密科学でも誤り
はあるさ」と。

ドゥブレの著書でとくに槍玉に上げられたヌーボー・フィロゾーフ世代のベルナー
ル-アンリ・レヴィは、過去二十年の間にインテリの役割が変わったのはたしか
だが、悪くなったのではなく、よい方に向かっているといいます。インテリは終
焉するどころが、つれからますます力を強めるだろう。「インテリはますます強
く、ますます活動的になっている。責任も高まり、効率もよくなっている」。ボ
スニアを例にとりながら、レヴィはインテリがこうした現場に立ち会っている
ことの重要性を指摘します。そして記事や議論などによって、「冷たい怪物」を
動かし、世論を指導していると。レヴィはゾラ、サルトル、フーコーなどを例に
取りながら、インテリこそが物事を変えてきたと力説します。

インテリは多くの過ちをおかしてきたのではないかという質問に対して、ポーラ
ンド、東欧、ボスニアなどの、さまざまな事件で誤謬を犯したのは、懐疑的な人
々や外交官たちだったと主張します。「共産主義について一九八〇年代に過ちを
犯したのは、インテリではなく、外交官やしったかぶりの専門家たちじゃないか」。

レヴィと同じように槍玉にあがった小説家のソレルスの意見をききましょう。
「インテリは世界の商品化の計画に加わっていない。そして世界全体を商
品化するには、インテリがどうも邪魔になるらしい。だからインテリなんかいら
ないという意見がでるのさ。それだけじゃないよ。こうした攻撃には、偉大なイ
ンテリたちに対するルサンチマンが一杯なのさ。バルト、フーコー、ラカン、デ
リダが長い間インテリの世界を支配してきたので、これまで陽が当たらなかった
インテリたちが復讐をねらっているのさ。書物や書き物の仕事を無視して、葬り
さってしまったら、あとに何が残ると思うかね」。

次に登場するのは、もちろん(笑)クリステヴァ。「インテリの終焉を宣言する
人は、大学、CNRS、多数の会議やコロークを訪問してみればいいのよ。多数
で多様なインテリたちが、精密な専門化、学問分野の交流、知の境界の撤去とい
う三つの課題に、どれほど専念しているか、よく理解できるはずだわ。外国でも
フランスのインテリたちの仕事の真面目さと現代性はよく認識されているのよ。
ひどく政治的な色彩をもつこうした攻撃に、フランスの一部の人々が同調するの
か、どうしても理解できないわね」。

最後に哲学者のルモ・ボデイの意見でこの記事はまとめられています。
「インテリの機能を弁護しようとする人々の意見には、
昔ながらの特権を守ろうとする気持ちがあるのではないかという疑いを招くのは
たしかだろう。それにインテリ攻撃は何度も続けられてきたのだから、今回も例
の騒がしい一幕と傍観していてもいいのかもしれない。でも今回のフランスのイ
ンテリ攻撃には、インテリの批判的な機能の正当性を剥奪し、公共的な議論を関
連当事者による世論の対立にゆだねてしまおうという下心が感じられる。ぼく
はインテリのこうした批判的な機能は大事にしたいな」。

どうもドゥブレの書物とはかなり違う場所まで議論が来ているようです。注文し
たドゥブレの『IF』も到着したので、少し中身を読んでから、続きをご報告しま
しょう。