バイオ・ポリテイクス
フーコー論二八章
(中山 元)

■装置
 この『知への意志』の書物でとくに注目されるのは、フーコーがセクシュアリテの〈装置〉という概念を提示したことだろう。これはドゥルーズの提示した〈機械〉という概念に類似しているが、異なる面もある。フーコーはこの装置の概念について、婚姻の装置と性的欲望の装置という二つの実例で説明している。

 婚姻の装置とは、社会における親族のシステムであり、許可されたものと禁じられたもの、定められたものと非合法なものを定義する規則のシステムの周囲に構築される。この装置は、関係のゲームを再生産し、関係を規制する方を維持することを目的とする。この婚姻の装置は、ドゥルーズ的な〈装置〉の概念でも理解しやすいが、特徴的なのはこれとは対照的なこの性的な欲望の装置の概念である。

 この性的な欲望の装置は、社会のシステムの一部として機能するものではなく、身体の感覚、快楽の質を基礎として機能するものである。この装置は、生産し、消費する身体を介して経済と結びついている。生殖や再生産を目的とする婚姻の装置と異なり、性的な欲望の装置は身体を刷新し、併合し、発明し、貫いていくこと、住民をますます統括的な形で管理していくことを目的とする。

 セクシュアリテは、最近になって生まれた権力の装置と結びついており、一七世紀からますます拡大を続けている。そしてそれ以来この装置を支えてきた仕組みは、生殖は目的とせず、初めから身体の濃密化をめざしてきた。セクシュアリテの装置は、知の目的としての価値を与えられ、権力関係のうちの一つの要素としての価値を与えられてきたのである(La volonte de savoir, p.141)。

 婚姻の装置を基礎として十八世紀から確立されてきた性的欲望の装置は、女の身体、子供の早熟、出産の調整、倒錯者の特種性の規定という四つの問題系を中心に、家族という形態において重なりつつ、その重要性を増大してきたわけである。そしてこの装置の焦点となるのが、近親相姦のタブーである。それは生物学的な理由からではない。この装置を動かし、人々をこの装置の外にださないようにするために「たえず呼び出され、しかも同時に拒絶される。強迫観念の対象であり、同時に呼び掛けの対象でもある。恐れられている秘密であると同時に、必須の結び目でもある」(Ibid., p.144)。

 それは家族が性的な欲望の恒常的に刺激=教唆される中枢であるために、不断に動員される必要がある。文化人類学は、近親相姦の禁止という命令はすべての文化に共通するものだという理論を精密化することによって、性的欲望の近代的な装置とそれによって生み出されるディスクールに大いに貢献したということになる。

 ここでフーコーが装置という概念を提示しているのは、性的な欲望が一つのエネルギーによって動かされ、それが一つの機能を果たし、自立した機構であるという理由によるものであろう。この装置の概念について、フーコーは『知への意志』の発行直後のインタビューで、次のように説明している。

 まず装置とは、実体的なものではなく、さまざまな要素で形成される網の目である。そしてドゥルーズの「機械」の概念と同じように、不均質な要素の全体である。装置はディスクール、制度、法規、法、行政的な措置、科学的な発言、哲学的、道徳的な命題の総体で形成されるものである。このテーゼは、『知の考古学』における編成の概念を想起させるものである。

 第二に装置の概念で重要なのは、これらの不均質な要素の間の相互的な関係である。ディスクールや制度的なものなど、異質な要素が互いに配置を転換し、ゲームを繰り広げる。第三にフーコーは、装置が社会の戦略的な機能に対応したものであることを強調する。精神病院という制度が形成されたのは、浮動人口を吸収するという必要性に応じたものであるとすれば、これは社会の全体的な戦略の一つの具体例として形成されたものである。

 しかし同時に、フーコーは機能は重層的に決定され、流動的であり、新しい課題に柔軟に対処するものであることを指摘している。現実の社会さまざまな機能が複雑にん関係する中で、さまざまな機能が生まれ、充足され、放棄される。フーコーはその一例として監獄をあげている。犯罪に対して拘留という手段で対処するための制度であった監獄は、逆に違法行為を幇助する犯罪社会を形成する効果を生み出した。するとこの装置は、犯罪社会をさまざまな政治的な目的(たとえば植民地や労働運動への暴力的な制圧手段など)や経済的な目的(売春の組織化など)を持たせるために、この制度を利用するようになるのである。

 フーコーはこの装置という概念を、『言葉と物』で提示されたエピステーメーという概念と関連させている。
   『言葉と物』ではエピステーメーの歴史を書こうとしたのだが、そこでわたしは袋小路に入り込んでしまった。いまやりたいのは、〈装置〉がエピステーメーよりもはるかに一般的な性質のものであることを示すことだ。エピステーメーは、ディスクールだけに限定された装置である。これに対して〈装置〉そのものは、ごく異質な要素を含むものであり、ディスクール的なものと、ディスクールに含まれないものの両方にわたる(Le jeu de Michel Foucault, D/E-3:300-301)。

 フーコーのこの装置の概念は、ディスクールを中心とするエピステーメーの概念と、ディスクールからはみでた場に進もうとするバイオ・ポリティックスの概念を連結する役割を果たす概念である。いわば力動的でありながら、同時に知の概念でもあるという二重性をそなえた概念なのだ。ドゥルーズの機械の概念は、生命のあるものと人工的なもの、有機的なものと無機的なものを連結する役割を果たしたが、フーコーのこの装置の概念も、家族の身体という有機的なものと、病院や性科学などの制度的なものや学問的なものを結び付ける役割を果たしていると考えることができる。

 この性の欲望という装置は、近代社会における性に対する感受性を高めるとともに、自己の性的な欲望に対する固定観念を強め、人々が自己の性を自己のアイデンティティであり、性的な秘密が自分のもっとも私秘的でもっとも重要な要素であるかのように思い込ませる機能を果たした。

 この性的な欲望の装置は、家族の地位を保証し、それを強固なものとする上で貢献したのであり、この装置によって罠を仕掛けられた人々は、医師に、教育者に、精神分析医に、司祭に、そしてすべての専門家に、自分の性的な悩みを打ち明けるのである。「あたかも、それまで執拗に吹き込まれ、たえず暗示されていたもののうちに、実はおそるべき秘密が含まれていたのはを、にわかに発見にしたかにように、事態は進む」のである(La volonte de savoir, p.146)。

 以前は庇護をしてくれるはずだった家族が、個人の性にまつわるあらゆる不運と災いを生む場となる。「家族、それはセクシュアリテの〈装置〉のうちにはめこまれた水晶の珠だ。この珠はセクシュアリテを拡めるようにみえるが、実はそれを外部に反射させ、屈折させる。水晶の透過性と、外部に反射させる作用によって、家族はこのセクシュアリテの装置にとってもっとも貴重な戦術的要素となる」のである(Ibid.)

 ここでフーコーは欲望の意味を二重に解読している。それを象徴するのはフロイトである。フロイトが読み解いたエディプス・コンプレックスとは、近親相姦という欲望の神話によって、個人を再び家族のもとに送り返す役割を果たしたのである。すると個人は、自己の反家族的な欲望を追求しながら、いつか家族の幻想のもとに回帰することになる。

 エディプス・コンプレックスとは、ドゥルーズが指摘するように、個人の欲望を〈パパ/ママ/ぼく〉の三角形に閉じ込めようとするものである。フロイトの無意識の理論は、ナルシシズムとマゾヒズムの理論において、この三角形を越えようとする契機を含みながら、最終的にはリビドーとエディプス・コンプレックスの理論において、個人を社会と家族の絆に連れ戻す役割を果たすのである。社会は、個人の欲望を生産しながら、それをエディプス・コンプレックスの理論によって近親相関的な小家族へと回帰させ、社会と家族に個人を拘束する罠を手中にしたのである。

■性のテクノロジーの歴史
 フーコーはこの装置の歴史において、一八世紀末にまったく新しい「性のテクノロジー」が誕生したとことを指摘する。性の問題が、教育と医学と経済を仲介にして、国家の問題となった。そこでは「社会集団全体とそれを構成する個人の一人一人が、自分を監視するようにと要求されるという事件」が発生した。

 これは次の三つの軸を中心に進められた。教育の軸においては、子供の特殊な性的欲望(自慰)に焦点が当てられ、医学の軸においては女性に固有の性的な心理が目標とされ、人口学の軸においては計画的な産児制限が目標とされた。これは伝統的なキリスト教においては、微妙な問題を含む分野であった。

 子供の性的な欲望は、聖職者にとっては一五世紀から重要な問題として取り上げられていたし、ヒステリーの医学は魔女と憑依の問題を別の次元で展開するものである。また産児制限の問題は、中絶の問題とともにキリスト教の夫婦関係の管理においては非常に難しい問題を孕むものであった。

 フーコーはしかし、この問題において重要な転換が発生したと考える。性のテクノロジーが、キリスト教的な戒律の問題ではなく、医学的な制度と正常性の規範の問題へと組み替えられたのである。この大きな変化は、一八世紀末から一九世紀初めにかけて発生したという。その指標となるのは、性の問題が教会内の問題から、社会における人種の存続の問題へと展開したことにあるという。

 性はそれ自体の病気に冒されるだけではなく、それを十分に管理しておかないと、病気を伝えたり、未来の世代に病気を作り出す危険性があると考えられた。社会がみずからを有機体と感じ始め、自己の身体の管理に意を配り始めた時代である。「性はこのようなものとして、種の病理学的な資本の根本に登場する。…性倒錯の医学と優生学のプログラムは、一九世紀後半の性のテクノロジーにおける二つの大きな革新だった」(Ibid.,p.156)。

 フーコーはここで、倒錯−遺伝−病的変質という組み合わせが、性についての新しいディスクールの確固たる中核を構成するようになると指摘する。これはナチズムによるユダヤ人の迫害をその極端な実例とする国家的な人種差別主義によって、現実に後押しされたのであり、刑法理論における犯罪人類学の抬頭と同時的に進んだ社会的な感受性の変化にともなう戦略の変化である。

 フーコーは、精神分析が性的な本能という概念によって、リビドーを優生学や人種差別から切り離し、独自にテクノロジーを確立することを目論見ていたことを確認する。ここにフーコーの精神分析とフロイトに対する両義的な姿勢がうかがえる。フーコーは精神分析が、キリスト教西洋世界の歴史において遠くまでたどることのできる性のテクノロジーにおいて、精神分析は一九四〇年代まではこの〈倒錯−遺伝−病的変質〉のシステムの政治的・制度的な作用にはっきりと対抗していたことを強調している。

 この性的な欲望の装置と性のテクノロジーは、社会の中ではまず「家族と階級に対して、健康な子孫を保証する責任」をおびていた支配階級において定着した。これは他者の快楽を制限する原理として登場したのではない。これはいわば「生を最大限にするための新しい技術」だったのである。このような自己の統治の技術である性のテクノロジーにおいて、性的な欲望の装置が、快楽とディスクールと真理と権力の新しい配分の仕組みとして確立された。

 フーコーがここで主張しているのは、このような新しい技術は、生のために考案されたのであり、フロイトの主張したような〈死の欲動〉のような否定的な要素として登場したのではないということである。健康で衛生的で、子孫と種族のためになる優れた身体を作り出そうとしたのである。一九世紀のブルジョワジーがここで作り出したのは、陶冶し、守り、育て上げるべき身体であり、あらゆる危険性から保護すべき身体であり、そのためこのような性のテクノロジーを自己の身体に行使するようになったのである。ブルジョワジーがこのような性的な欲望を出発点として、一つの特殊な身体を確保しようとした理由、自己の身体のうちに性を受肉させた理由を、フーコーは次のように分析している。

 第一に貴族階級が〈血〉という価値で守ろうとしてきたことを、支配階級になったブルジョワジーが身体という価値を形成することによって、確保しようとしたこと。貴族階級において系図がもっていた意味を、ブルジョワジーにおいては遺伝がもつようになる。第二に、これは単に貴族の血のテーマをみずからのものとして確立するというだけではなく、身体の評価をブルジョワジーの覇権の増大と確立のために活用するという積極的なプロジェクトでもあった。「ブルジョワジーは、貴族の青い血を健康な身体と健全なセクシュアリテに転換させた」(Ibid., p.166)のである。

 ブルジョワジーはこのような性的な欲望とは、みずからの階級に固有のものと考えていたのであり、これをプロレタリアートに認めるのを当初は拒んでいた。またプロレタリアートも、このような性的な欲望を自分のものとして認めることを拒んでいた。全社会的に自己の身体が重要な問題となるには、一九世紀半ばになるのを待つ必要があるとフーコーは指摘している。

 フーコーのこのセクシュアリテの理論によって、次の二つの帰結が生まれる。まず、欲望が作られたものであることが明示される。セクシュアリテとは、ブルジョワジーが市民社会において自己の覇権を確立し、貴族の血に代わる価値を確保するために作り出した装置であり、テクノロジーであると考えることは、セクシュアリテが人間に自然に備わっているという考えを根底から覆す。

 これはフロイトと精神分析におけるリビドーの概念が無効であることを主張するものでもある。そしてこれと同時に、性的な欲動と死の欲動という概念の対立構造そのものも意味を失う。この主張は、性的な欲望という神話を解体すると同時に、否定的な欲望の理論に対する反論となるのである。

 フロイトは、プラトンの伝統を引き継いで、欲望とは欠如にあると考える傾向があった。欲望が欠如とその充足において考えられるのであれば、人間の有限性のために、人間は欠如を埋めるためにつねに欲望に悩まされていることになる。しかし欲望が積極的に作られるものであり、欲望とは人間の欠如を埋めるためのものではなく、人間が自己の別の可能性を考えるための一つの技術であるとすれば、欲望とは否定的な要素ではなくなる。

 第二に、性的な欲望がブルジョワジーの戦略に基づいて、人為的に作られたものだと考えることは、精神分析と性倒錯の学問(性科学)と優生学の学問的な根拠自体を問うことになる。フーコーは古典主義時代から発展してきた性的な欲望の装置の歴史を問うことは、精神分析の考古学としての価値をもつようになると考えているところが興味深い。

 この考古学によってリビドーとエディプス・コンプレックスという概念の歴史性が明示されされば、精神分析はその根拠を喪失するのであり、性倒錯の理論は、正常な性という規範を失うことになる。さらに優生学はその階級的な立場を露呈することになり、学問としての客観性を失うことになる。さらに近親相姦の概念の理論的な根拠を問うものでもあるため、レヴィ=ストロースの文化人類学に根本的な概念に疑義を呈するものとなる。エディプス・コンプレックスの社会的な位置と役割を明示することは、文化人類学という学問が西洋において誕生した時期と出生の秘密を明らかにするものでもある。このようなフーコーの性的な欲望の理論は、その後のフーコーの研究活動にとって、重要な意味をもつことになった。

■バイオ・パワー
 フーコーが『監視と処罰』において指摘していたように、封建的な王政の権力は、死を与える権力、領地の支配を認める代わりに、戦において君主のために死ぬことを命じる権力であった。これは剣によって象徴される権力であり、刑罰という形で犯罪者を罰する権力であった。このような社会では権力は、「臣下から生産物、財産、奉仕、労働、血を奪いながら行使される」のである(Ibid., p.178)。

 しかし古典主義時代以降の西洋の社会は、もはやこのような権力のモデルで理解することはできない。かつての死を与える権力は、社会の身体が自己の生命を維持し、保持し、発展させるための権力の裏面にすぎなくなる。たしかに現代は大量殺戮の時代であるが、それは生命を経営・管理し、増大させ、増殖させる権力を補完するために、いわば生を維持するためのに権力の戦略の一部として遂行されるにすぎない。「もはや戦争は、守るき君主の名において戦われるのではない。すべての人が生き残るためという名分のために戦われる。すべての住民が、みずからの生存の必要の名において、殺し合うように訓練される。生きるためには、大量虐殺が必要となる」(Ibdi., p.180)。

 これは非常に逆説的な状況である。国民を生存させるという目的のもとで、核戦争による人類抹消の可能性が拡大するのである。しかもそこで生存が問題となるのは、もはや主権の法的な存在ではなく、一つの国民の生物学的な存在である。「大量虐殺はまさに、近代の権力の夢となるが、これは近代にいたって、古き〈殺す権利〉に回帰したことを示すものではない。権力は生命と種と人種のレベルで、人口という巨大な現象のレベルにおいて行使されるからである」(Ibid., p.180)。

 これは死刑についても言えることである。かつては君主の権力を傷つけた者が処刑された。しかし近代の社会においては死刑を維持するためには、その死刑の対象となるべき者が、社会の維持と安寧のために生存すべきでないことを訴える必要がある。犯人が異常であり、矯正不可能であることを示すことによって、社会にとって「生物学的な危険であること」を示すことによって、犯罪者を社会から抹消することが認められるのである。

 フーコーはこれを、「死なせるか、生きるままにしておくという古い権力に代わって、生きさせるか、死の中に排棄するという権力が現れた」と要約している。この権力をフーコーは、生の権力(バイオ・パワー)と名づける。ここでフーコーが、『監視と処罰』における規律社会に次いで、新しい管理する社会の概念を提示していることが注目される。

 これについてはすでにドゥルーズが指摘していたことだが、時代的にいくらかずれながら、二つの権力の手続きが登場する。まず一七世紀に登場した規律と調教の手続きが誕生し、これをフーコーは人間の身体の解剖・政治学と呼んでいる。これは身体をマシンとみなす政治学であり、「身体を調教し、身体の適性を高め、身体の力を奪い、身体の有用性と従順さを平行して増強させ、身体を効率的で経済的な管理システムへと組み込む」ものである(Ibid., p.183)。これはいわばホッブス的な身体論のレベルにある。

 これに対して第二の手続きはやや遅れて一八世紀に登場する。これは「種としての身体、生物の力学に貫かれ、生物学的なプロセスの支えとなる身体というものを軸とする」(Ibid.)手続きであり、人口のバイオ・ポリティックスである。この二つの極によって構成された生の権力は、一八世紀にはまだ二極的な構造が明確に確認できた。この規律の学と人口の学を統合しようとしたのが、イデオローグたちである。そしてこの権力の巨大なテクノロジーを支えるもっとも重要な要素が、性的な欲望の装置なのである。

 フーコーは、この生の権力によって、生きた身体を取り込み、それに価値を付与し、その力を配分しながら管理することが可能になったことを指摘しており、これが資本主義にいかに適合的であったかを説明している。たしかにこれが資本主義にとって重要な意味をもったのは、十分に理解することができる。資本主義とは、生産と同時に消費を必要とする。社会主義が消費と流通の問題を十分に考察していなかったのに対して、資本主義は数次の恐慌を経験して、消費の問題が生産にとって枢要な意味をもつことを認識するようになった。生産者を同時に消費者にしない限り、生産活動をつねに継続していくことはできないのである。

 規律の手続きが生きた身体を従順な生産機械としたとすると、管理の手続きは生きた身体に欲望をもたせ、その欲望を拡大させ、新たな生産を可能にすることことを目指した。人間が欲望機械となることによって、拡大し、成長し続ける社会のイメージが可能になったと考えることができる。

なおこのフーコー論は、中山 元『フーコー入門』(ちくま新書、一九九六年六月刊行)の土台となった原稿の一部で、全体で四〇章程度の長いものとなる予定です。ここに掲載した文章は、上記の書物と重複するところがあります。この文章を掲載することを許可された筑摩書房に感謝いたします。

Copyright 2001 by Gen Nakayama