【書評】 [176]人間は自分の身体を所有するのだろうか
2005年2月12日



【書評】ジャン=ピエール ボー『盗まれた手の事件―肉体の法制史』法政大学出版局、二〇〇四年

ルジャンドルの弟子のボーが法律の歴史のもとづいて、人間の身体の物質性を否認し、人間を人格、ペルソナとしてみるローマ法的な人格論が、生命医学の発展とともに完全に破産していることを示す。ときに論点が飛ぶが、とても刺激的な書物だ。糞便は廃棄物として捨てるのが当然なのに、血はそうではない。その背景にありキリスト教の伝統的な感性をえぐりだす。目次はつぎのとおり。判決―フィクション 体、この厄介なもの 終末…まえもって ローマ的シヴィリテが法の非肉体化を求めるということ 人格、その演出家による創造物 体、有形な物―見いだせない明白な事実について 狂気とグロテスクに関する逸話 ゲルマン人には角が生えているのか 肉体の教会法的定義―権利の対象  肉体の教会法的定義―手当ての対象 公衆衛生の起源にさかのぼって 労働者の肉体という新しい法的事実 暴力がシヴィリテを脅かすところ ある日、血が 血の事業 人間にとっての肉体、そして別の「物」。ボーにはあと『錬金術裁判』と Le proce`s de l'alchimie: Introduction a` la le'galite' scientifiqueと『生と死の権利』Le droit de vie et de mortがある。二番目の本が読みたい。


【書評】 [175]グローバリゼーションの難問に果敢に挑戦
2005年2月12日



【書評】ジャン=リュック・ナンシー『世界の創造あるいは世界化』現代企画室、二〇〇三年

前の書評から間があいてしまった。たくさん読んだのだが、書くのがつい億劫になって……。本書はグローバリゼーションと主権の問題、生の権力の問題など、アクチュアルな問題に鋭く切り込む。例外状態の理論の考察や、キリスト教の脱構築など、魅力的なテーマがいっぱいなのだ。しかし読後にいまいち開けた感じがない。考察がほのめかしで終わってしまうことがおおい。もっと掘り下げた分析はできないのだろうか。デリダのようなしつこさがほしいとわがままな望みがでてくる。重要なテーマであり、ぼくも考えているところなのだが。目次を掲げておく。1章 都にそして世界に 2章 創造について 3章 脱自然化としての創造―形而上学的テクノロジー 4章 補遺(「生命政治」という用語についてのノート。無カラノ至高(Ex nihilo summum)至高性について、コスモスこそ王)


【書評】 [174]若きルカーチの鋭い文芸批評
2005年1月31日



【書評】ルカーチ『魂の形式 』川村二郎ほか訳白水社、一九六九年

ルカーチのドイツ文学を中心とした批評集。とくにキルケゴール論がよい。キルケゴールはトルバドールたちが王妃を愛したように愛する女性を求めたのであり、そのような相手は神しかいないこと、そこにキルケゴールの深い宗教性があることを力説する。偉大なドイツ市民文学の最後の人としてのシュトルム論も腑に落ちる。ジンメル論は卓抜。短い文章で多くのことを教えてくれる。


【書評】 [173]レジュメのような読解
2005年1月30日



【書評】木田元『メルロ=ポンティの思想 』岩波書店、一九八四年

第一章と第二章は、『行動の構造』と『知覚の現象学』のレジュメを読むような味気なさ。もっと明確な視点を貫いてほしかった。後半になると少し展開がでてくる。せっかくのご著書なのに、木田さん。雑誌掲載のまとめという制約もあるのだろうが。


【書評】 [172]邪視の力
2005年1月28日



【書評】マリア・M. タタール『魔の眼に魅されて―メスメリズムと文学の研究 異貌の19世紀』鈴木 晶訳、国書刊行会、一九九四年

メスメルの動物磁気の理論は、さまざまな文学者の好奇心をかきたて、作品の枠組みとするための便利な道具となった。クライスト、ホフマンスタール、バルザックなど、魔の目に魅惑された作家は多く、ホーソーンのように主人と奴隷の関係を導入するために役立てた作家もいた。やがてフロイトの精神分析の理論とともに、こうした物理的な仕掛けなしでも、人間の精神の不思議さが描けるようになる。


【書評】 [171]フロイトの無意識の理論が生まれるまでの歴史
2005年1月28日



【書評】L.シェルトーク、R.ド・ソシュール『精神分析学の誕生―メスメルからフロイトへ』長井 真理訳、岩波書店、一九八七年

メスメルの動物磁気の理論から、ナンシー学派、サルペトリエール学派を経由して、フロイトの無意識の理論が誕生するまでを考察。とくに治療者と患者の二者関係に重点をおく。納得できるアプローチだが、フロイトにページを割きすぎているのではないか。もっと二者関係のもつさまざまな問題点の検討を深めてからフロイトに入ってもよかったのでは。それでも精神分析の問題を考えるには、好著。


【書評】 [170]フロイトの誘惑理論のおさらい
2005年1月28日



【書評】フィル・モロク『フロイトと作られた記憶』中村裕子訳、岩波書店、二〇〇四年

岩波書店のポストモダン・ブックスの一冊。フロイトの隠蔽記憶と誘惑理論のおさらい。アメリカでは幼児の性的虐待の「記憶」をもとに、父親を訴えたりする事例が頻発しているのだしうだ。それでフロイトにその責任が負わされているらしい。説明はまともだが簡略すぎるし、大平健の解説もちょっと(笑)で、お勧めできない。


【書評】 [169]原注のラカン批判に注目
2005年1月27日



【書評】ジャック・デリダ『ポジシオン』高橋 允昭訳、青土社、一九八一年

デリダのインタビュー集。わかりにくいが、脱構築などについて説明がある。『散種』の解説のような本だ。当時の翻訳の苦労がしのばれる。さすがに『エクリチュールと差異』のようなひどさはない。この手の文章は翻訳が大変だ。原注のラカン批判に注目。


【書評】 [168]デリダ初期の代表作
2005年1月26日



【書評】ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』足立和浩訳、現代思潮新社、一九七二年

デリダ初期の代表作。レヴィ=ストロースとルソーについてエクリチュールと代補の理論の考察を展開する。「テクストの外部はない」という有名な方法論なども提示されている。ルソー論としても優れていると思う。これからデリダを順に続けて読んでいく予定。


【書評】 [167]メディアに現れた時間のさまざまな様態
2005年1月24日



【書評】スティーヴン カーン 『時間の文化史―時間と空間の文化 1880‐1918年〈上巻〉 』法政大学出版局、一九九三年

現代初頭の時間の文化を過去、現在、未来について考察する。タイタニックの沈没の際に、無線をもった遠くの船が知らせを聞いて急行したが、近くの船はそれを知らなかったという。近さと速さの皮肉な状態から、永遠回帰のニーチェまで、さまざまな時間の様態を探る。もう少し哲学的につっこんであってもよかったと思うが、ためになる本。


【書評】 [166]全体性という失墜した概念の冒険
2005年1月24日



【書評】マーティン ジェイ『マルクス主義と全体性―ルカーチからハーバーマスへの概念の冒険』国文社、一九九三年

ルカーチからハーバーマス、そしてポスト構造主義とハーバーマスの「対決」にいたるまで、西欧マルクス主義が全体性という概念とどのように取り組んでいったか。壮大な実験、巨大な著作。読み応えあり。ジェイはフーコーとハーバーマスの対決に期待をかけたが、結局はハーバーマスはデリダと手打ちをすることになる。


【書評】 [165]歴史と天使
2005年1月23日



【書評】ステファヌ・モーゼス『歴史の天使』法政大学出版局、二〇〇三年

たがいに影響関係にあったローゼンツヴァイク、ベンヤミン、ショーレムの三人の時間と歴史概念の共通性を考察する。進化という見方に対して不連続な時間の重要性を強調した三人だけに、うまいまとめかたかも。とくにショーレム論がわかりやすい。ベンヤミンについてはそれほど新しい知見はないかも。ローゼンツヴァイクはよく知られていないだけに、もう少し別の切り口がほしかったような気がする。


【書評】 [164]知識人の消滅の後に
2005年1月23日



【書評】ジャン=フランソワ リオタール『知識人の終焉』法政大学出版局、一九八八年

現代社会において、普遍的な主体が消滅した後の知識階層の人々の任務を語る。知識人はもはや消滅し、近代というパラノイアから知を切り離すことを任務にすべきだと語る。争異などについての簡単な回想もある。とくに購入して読むほどのものではないかも。


【書評】 [163]ある日のリオタール
2005年1月22日



【書評】ジャン=フランソワ リオタール『リオタール寓話集』藤原書店、一九九六年

リオタールの晩年の一冊。後期のリオタールが入っていった袋小路のようなものが透けてみえる。もちろん啓発的なところもあるし、鋭い考察もある。それでもそこからあと、どこに進めばよいのか。珍しいのびのびとした写真に少しほっとする。「寓話集」とか「リオタール入門」とかに惑わされないように(笑)。


【書評】[162]言語の逆説
2005年1月22日



【書評】森本 浩一『デイヴィドソン』NHK出版、二〇〇四年

「言語などない」という逆説的な表現だけに集中して、デイヴィドソンの理論を解明する。とてもわかりよい考察だ。結局デイヴィドソンが語っていることは、ものの見方を裏返しにしただけというところもあるが。デリダとの類似についても、よくわかる。お勧めの一冊。


【書評】[161]プラトンの謎
2005年1月21日



【書評】ジャック・デリダ『コーラ』未来社、二〇〇四年

プラトンの謎めいた概念コーラをめぐるデリの考察。知性で認識できるものと感性で認識できるものという二元的な対立以前に、認識できるものの場として第三の種類の存在であり、存在者を存在せしめるものとしてのコーラ。存在論的な文法を撹乱するコーラはきわめて興味深いものだ。ポリスと戦争をめぐるデリダの考察も考えさせる。


【書評】[160]はたしてデリダは「左旋回」したのか
2005年1月21日



【書評】仲正 昌樹『ポスト・モダンの左旋回』世界書院、二〇〇四年

デリダやローティなど、ポストモダンやプラグマティズムの思想家が最近示している「左旋回」の状況を解説しながら、柄谷と浅田の言説と、日本の「左翼知識人」の軽さを批判する書物。デリダ自身はずっと政治的だったと語っている。左旋回というのが適切な概念なのかどうか。


【書評】[159]もっとしっかりヘーゲルを語ってほしい
2005年1月20日



【書評】栗原 隆『ヘーゲル』日本放送出版協会、二〇〇四年

ヘーゲルを読んで生きる力を得たいとか、与えたいとか望むのは、著書としても、入門書としても見当違いではないだろうか。著者はヘーゲル学者である。ヘーゲルの怖さと深さを少しでも示してくれると良かったのだが。弁証法の説明にしても、きわめて日常的に語りすぎていて、ほとんど意味をなさない。アリストテレスのエネルゲイアとどう違うのか。木の葉が黄色になるとか、赤くなるとかで、弁証法を説明しようとするのが、そもそも無理では。やれやれ。


【書評】[158]デリダ初期の傑作
2005年1月20日



【書評】ジャック・デリダ『エクリチュールと差異』梶谷ほか訳、法政大学出版局、一九八三年

ユダヤ性を正面から考察したジャベス論、現象学の可能性をまだうたいつづけるフッサール論、レヴィナスへの注目をあつめたレヴィナス論、フーコーとの仲たがいの原因になったフーコー論、ヘーゲルとの取り組みを詳しく考察し、どんなバタイユ論を書いてはならないかを示したバタイユ論と、豊穣な一冊。それぞれの論文だけで、後期のデリダなら一冊の本を書いていただろう(笑)。


【書評】[157]あらぶるデリダ
2005年1月19日



【書評】ジャック・デリダ『絵画における真理』高橋・阿部訳、法政大学出版局、一九九七年

あらぶるデリダ。絵画における真理というセザンヌの言葉を手掛かりに、絵画における美について、カントの『判断力批判』、ヘーゲルの『美学講義』、ハイデガーの『芸術作品の根源』を読みとく。カントが自然の美の代表としてチューリップを例にあげる根拠が示されるところがすごい。ド・ソシュールが野生のチューリップを発見したという記述がその背景にあるのだ。植物の美は人間の手の入らない野生のチューリップで代表されるべきだったのだ。それと対照的に絵画では、枠組みとしてのパレルゴンが、人間の尺度として必ず必要になる。なんとも読みにくい一冊だが……。


【書評】[156]隣人への愛
2005年1月19日



【書評】V・ジャンケレヴィッチ『道徳の逆説』仲沢紀雄訳、みすず書房、一九八六年

道徳とは何かという問いには一切ふれることがない。ジャンケレヴィッチは道徳の問題を、他者を愛することとすぐに読み替える。これはキリスト教の伝統における道徳原理だ。神を信じ、愛すること、そして隣人を愛すること、この愛の原理が道徳の根幹に置かれるのだ。すると無私の愛、最大限の愛、限度というもののない愛の逆説が浮き彫りになってくる。ただしどこまでもキリスト教的な道徳としてだが


【書評】[155]死の謎に寄せる波
2005年1月19日



【書評】V・ジャンケレヴィッチ『死』
仲沢紀雄訳、みすず書房、一九七八年

さまざまな文学作品や哲学作品をめぐりながら、死についてのたゆたうような考察。よせてはかえす波のように死について、この「ほとんど無」にちかい謎について考える。ぼくたちは死を経験することができない。肉親の死を経験することは、自分の生についてさまざまなことを考えさせるが、死は生の彼方になお謎として残る。この経験することのない謎なついての考察をこれだけの長さで展開できることを考えると、どこからか希望が生まれてくる。


【書評】[154]手の哲学的な考察
2005年1月18日



【書評】ジャン・ブラン『手と精神』法政大学出版局

ジャン・ブランはギリシア哲学の紹介者として日本では知られているが、この書物は西洋の思想における手の位置を考察したユニークな書物。アリストテレスの手の理論から始まって、進化論における手の位置、カントとヘーゲル、手相論、愛撫についての考察など幅広く、参考になる。ただし読み物としては筋が乱れ、繰り返しが多くなる。そこが残念だが手について考えるには格好の参考書だろう。


【書評】[153]リオタールの思想的な遍歴
2005年1月18日



【書評】ジャン=フランソワ・リオタール『遍歴』、小野康男訳、法政大学出版局、一九九〇年

リオタールは子供の頃にドミニコ会の修道士か、画家か、歴史家になりたかったという。修道士は法と、画家は形式や色彩と、歴史家は出来事とかかわる(一〇ページ)。この書物は幼児の頃の夢にかこつけて、リオタールがこの三つの側面から自分の一生の遍歴をふりかえった一九八六年の講演の記録だ。波乱に富んだ一生だけに、わかりやすい区分だと思う。付録として「マルクス主義の回想」をつけている。リオタールの思想のまとめとして手頃な一冊と勧めたいところだが、あまりに短いので、他の本を読んでいないとわからないという問題はある。


【書評】[152]カネッティの作品紹介で終わる一冊
2005年1月17日



【書評】ユセフ・イシャグプール『エリアス・カネッティ』川俣晃自訳、法政大学出版局、一九九六年

カネッティの伝記的な考察と、カネッティの作品紹介。作品紹介は筋の解説から細部にまでいたる。とくに鋭い指摘はなく、アカデミー・フランセーズ賞を受賞したといのに驚く。フランスのアカデミーはこうした本が好みなのだろうか。まあ、カネッティの作品というのも、紹介が困難であるのはたしかだが。


【書評】[151]ハイデガーと地−哲学
2004年1月17日



【書評】ジャン・フランソワ・リオタール『ハイデガーとユダヤ人』
本間邦雄訳、藤原書店、一九九二年

リオタールのまとめ読みの一環で読みなおす。前半のユダヤ人論はフロイトの事後性の理論やカントの崇高の理論との関連で描かれていて、後半のハイデガー論ともう少し連結がよければと思う。ハイデガー論はその時点でのフランスの議論にあまりにわけいりすぎている。ハイデガーが存在しかみいださず、他者をみいだすことはなかったというレヴィナス的な指摘は、いまでは少し軽みを感じる。邦訳された時点ではすぐれたハイデガー論だと思ったのだが。地−哲学の主張はもっともだが、それがフランス性の高揚につながる懸念がいくらかある。これはフッサールやデリダとつらなるヨーロッパ論の系譜なのだろうか。


【書評】[150]資本主義と科学技術の複雑な関係
2005年1月16日



【書評】ミシェル・アンリ『共産主義から資本主義へ』、野村直正訳、法政大学出版局、二〇〇一年

マルクス論のあるアンリが、東欧の共産主義の崩壊をきっかけに、社会主義の問題と資本主義の功罪を考察した注目書。共産主義は個人を切り下げるという意味でファシズムと同じ役割を果たしたと指摘する。資本主義は個人の欲望を重視する点では優れているが、科学・技術の進歩と一体化したことで、死のシステムとなったことを指摘する。資本主義の問題が科学技術の問題とまったく別のものとすることができるかどうか、もっと深い掘り下げが必要だとは思うが、なかなかおもしろい。客観と主観の表象の存在論を否定する内在の哲学も考えさせるものをもっている。