日本人論の陥穽

【書評】木村敏『人と人の間』弘文堂、一九七二年




もう古い古典的な本だが、ふとおもいたって読み返した。いくつか疑問なところがある。いわゆる日本人論に固有の陥穽に陥っていると思われるところがあるのだ。まず「われわれ日本人」が、生まれによってではなく、血によって決まっているというのはどうか。「「われわれ日本人」に表されている日本人の集合的アイデンティティーが、西洋人のそれと違って個人的レベルのものではなく、超個人的な血縁的、それも血縁史的なアイデンティティーである」(12)のは疑問だ。

日本で生まれた外国人は日本人でないところがあるというのは、外見に左右されていないか。日本で生まれた生粋の日本人でも、著者の考える日本人のアイデンティティにそぐわない人はたくさんいるはずだ。精神医学という分野にいる著者には、日本人に多く見られる症候などから、日本人の特異性を強調したくなるだろうが、日本人の〈血〉などというものは、一つのイデオロギーにすぎないだろう。



ただ風土論にあわせて、「人と人の間」をたんに和辻的な倫理学としてだけでなく、「どこにでも、いつでも」(16)あるものとして考えるという着想はおもしろい。それを〈血〉として考える必要はないだろう。ぼくたちが育った風土と人間的な関係のうちに存在するものであり、ぼくたちはその「間」のうちで人間になったのだと考えるべきなのだ。

著者は「人間は自己を白紙の状態から風土化するのではなく、生まれた時から、否、生まれる前から、すでに風土の一部なのではないだろうか」(89)と考えるが、そもそも「白紙の状態」という概念そのものが虚構である。ぼくたちは生まれる前から風土の一部であったり、日本人であったりするのではなく、育ちながら日本人に「なる」のだとぼくは考える。

また著者は日本と西洋の言語の違いを強調しすぎるだろう。人称代名詞の使い方の違いは大きいし、それが日本の社会に深く根差すこともたしかだ。しかし「西洋の思想は日本語によっては絶対に表現できないし、日本的な物の考え方西洋語を用いては絶対に伝えることができない」(189)と言ったしまったら、あとは蛸壺を掘るしかなくなる。

思想の普遍性は、ある次元では可能なのだし、それを否定することは、西洋の概念が埋め尽くされた近代の日本語を理解する可能性を否定することだ。日本の精神医学そのものが、西洋の概念と言葉で構築されているはずなのだが。

そのことは、たとえば「甘えた」(162)の概念が、ぼくのような関東人にとっても、説明されればなんとなるわかることからも明らかだろう。この概念はぼくには西洋の概念よりも、理解するのに苦労する概念なのだ。それでも言語は相互理解を可能にする手段なのだ。それでも、著者が日本語の重要な概念と考える「気」についての説明はまだ読める。

2003年9月28日
(c)中山 元

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