楽しく読めるキリスト教の教理史

坂口ふみ『〈個〉の誕生』岩波書店、一九九六年






キリスト教の教理の歴史を、ニカイア信条とカルケドン信条を軸にたどる書物。とくに最初のニカイア公会議で中心のテーマとなった三位一体の問題が、ペルソナの概念を軸に解決され、カルケドン会議におけるキリストの問題が、ヒュポシタシスの概念を軸に解決されたことを示す解明は、説得力をもつ。著者も指摘するように、キリスト教の教義の退屈な歴史に思えることが、実は困難な哲学的な思索の軌跡を示すものなのだ。

著者は、キリスト教の神学者たちが苦闘した問題が、ギリシア哲学以来の重要な問題を前提としたことを指摘する。三にして一とはすでにプラトンが提示していた思考の枠組みであり、それはさかのぼれば、パルメニデスの存在論が示した難問を解決するための試みを引き継いだものだ。



一つのものが三つのものであり、三つのものが一つであるとは、処女懐胎に劣らぬ逆説であり、当時の人々が異教であり、迷信であり、論理的な矛盾であると指摘したのも当然のことだろう。その逆説にあえて拘らなければならなかった理由が、ギリシアの哲学と新プラトン主義の伝統から説き明かされる。

「三位は何らかの仕方で別々でなければならない。様態でも働きでも属性でも、はたまた流出でも従属でもない。まったくの三で、まったくの一、このようなものを理解可能なかたちで説明するには、何かこれまでとは根本的に違う、新しい現実の切り方を考え出す必要があった」(79)。

その一つの解は、ヴィクトリヌスの新プラトン主義的な解決策である。超越的な第一原理(父)が、この世界に降下し、受肉して第二原理(子)を生み出す。この二つの原理は「実体を同じくする」(ホモウシオス)。ただしプロティノスとは異なり、第一原理はこの世界から完全に超越していない。光ではなく、「知られざるもの、知を越えるもの、闇」(81)となり、「あらゆる存在者の芯に、超越的な闇」(同)として存在する。「それはかたちを与えるものとしては存在者、実在を実現する力としてはロゴスである」(ヴィクトリヌス)。父が子と違うことを主張するアリウス派に対抗する西方では、この同質性が強調される。これがニカイア信条の伝統である。

第二の解は、ユダヤ教に対抗して、キリスト教の神が「三」であることを強調する必要のある東方のカッパドキアの教父たちのアイデアであり、「聖霊のうちにこそ三位がある」と主張する東方神学の答えだ。すでに西方のテルトゥリアヌスは、一つの実体が三つのペルソナをもつというアイデアを提示していたが、これにならって一なるもの(ウシア)が三つの位格(ヒュポスタシス)をもつと考えたわけだ。そして一なるものと、その「現れ」とは同一の実体(ホモウシオス)ではなく、相似した実体(ホモイウシオス)の関係にある。

第三の解は、アウグスティヌスが示した独特な答えだ。ぼくはこの答えはあまりキリスト教の教義の上では貢献していないのではないかと思うが、自分の心のうちに、非空間的な三位一体のありかたをみいだす方法だ。「現に私に見える私の心のうちに、それを通じてはるかに世界を超え、私を超える、ある一とも多とも言いがたいあり方、生命に満ちて循環するあり方へと透徹しようとする眼ざし」(95)。もちろんアウグスティヌスがもたらしたものは巨大であるが、ヒュポスタシスをめぐる劇としては、アウグスティヌスは心の内側を探る背中しかみえないようだ。

この三位一体論の伝統では、ヒュポスタシスは人格的なありかたをするのは、ペルソナの概念を考えれば理解できることだろう。西洋ではこの人格的なペルソナの役割を果たすのは、何よりも第二の位格のロゴス、受肉した神である。歴史的になによりもヒュポスタシスであるのはキリストなのである(123)。そこでこのキリストの性格をめぐって議論が沸騰する。キリストは神であり、人である。この二つのありかたはどのようにして可能になるのか。

一つの解は、キリストには神の本性(ピュシス)と人の本性(ピュシス)があるという二つのピュシス論である。その前駆的な形式はオリゲネスの二つの本性論である。キリストにおいて、二つの本性が混合し、共にある。神人(テアントローポス)となり、理性的な霊魂が、ロゴス的なものと物質的なものとに親和性をもつからだと主張する(150)。これは言・人間型(ロゴス・アントローポス)的な結論だ。ただしこれは明確な異端になってしまう。

これに対してアポナリオスは、イエスには人間の理性的な魂がなくなり、第二の位格のロゴスがイエスを動かしていると考える。ここには一つの本性しかなくなる。「神と肉とが一つの本性を作りあげた」という言・肉型(ロゴス・サルクス)の結論である。ただこの理論の問題は、これがイエスは「全く人」であるという救済論の要請をみたすことができない(152)。

このジレンマをめぐって論争がつづく。アンティオキアではテオドルス派が、二本性論を唱える。この二つの本性は、ピュシス的、ヒュポスタシス的に結合するのではなく、「恩恵により」「関係により」結合するという。実体的には別のものであり、道徳的に結合するだけだ(154)。ところがこの二本性論では、イエスにおいては二つの本性が別のものであるから、マリアは「神を生んだ」わけではない。マリアはテオトコスとしての資格を失うのである。

ネストリウスもほぼ同じような二本性論を展開する。二つの本性は「それぞれの性質・働きを維持して、不変、別個、不混和、不混淆な仕方で結合される」(157)。これに対抗したのが、アレクサンドレイアのキュリルスである。ヒュパティアの殺戮にも示されるように、権力的な司教だった彼は、「肉となった神のロゴスの一なるピュシス」を主張する。「ロゴスは理性的霊魂によって生命を与えられている肉へと、ヒュポスタシイにおいて、説明も理解もなしがたい仕方で結合され、人間となり、人間の子となった」というキュリルスの説明が、カルケドン信条で採用される。こうしてマリアは神の母となる。

細かなところは省いていうと、このキリスト論を軸として、キリスト教の哲学はギリシアの哲学と大きく別れたというのが、著者の主要な論点である。キリストという単独者のありかたを考察することを強いられたキリスト教は、単独者への視点を内在させる。ギリシアの哲学は、つねに普遍へと向かう。アリストテレスにとって学とは普遍を対象とするものだったからだ。

しかし「キリスト教がもっとも尊貴なものとして、その意味での本質としてみるものは、個の個たるところである。……キリスト教があらゆる出来事と存在の神髄として説くのは、個々の人間の心の救いであり、そのために一回一回独自の仕方で、つまりいわば単独者として働く、神の行為と愛である」(240)というわけだ。キリスト教が隣人愛という形で定式化した倫理が、個別者へのまなざしを可能にしたと考えるわけだ。

キリスト教にこの個人の心の内面に対するまなざしが鋭いほどに存在するのはたしかだろう。しかし同時に考える必要があるのは、同時代のストアにも、自己の心への配慮があることだ。もちろんこれは賢者としてのストア派の哲学者の心の鍛練であり、大衆としての他者へのまなざしは欠けることがある。そこにキリスト教の強さがあるのはたしかだとしても、その宗教のまなざしには限界がある。なによりもこのキリスト教の教理は、イエスという単独者の存在を解明するために構築されたものであり、ぼくたちが他者を単独者としてみるための手がかりにはなりにくい。

アレントも指摘するように、隣人愛の概念には、やはり無世界的なところがある。隣人を愛することは、できる限り隣人その人にも、自分にも秘されたものであることが望ましいのだ。だからこのまなざしは、福祉国家が国民をみるなまざしであり、司祭が地区の信徒たちをみるまなざしだ。ぼくたちが他者との間でたがいを認め合う政治的な空間は、ここからはうまれる道がないのだ。

ともかく楽しく読めるキリスト教の教理史という困難な課題をやりとげた書物と言えるだろう。簡単にふれているにすぎないが、レヴィナスの「顔」の概念とプロソーポンの概念(プロソーポンはペルソナと深い関係にある)の関連性の指摘もおもしろい。聖霊を重視し、ヒュポスタシス=ペルソナの概念で「ヒエラルキーでなく、自由と生命と内的充溢」を重視した東方の哲学が(レヴィナスも東方の出身だ)、独自の組織をもたないがゆえに、国家権力を結びつき、ソ連の支配を許したのではないか、権力と宗教があいまいに妥協する伝統を作ったのではないかという指摘(106)も鋭い。


2003年10月8日
(c)中山 元

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